印象をただよう告解部屋

キラリと思い浮かんだことあれこれ

神様を信じたのは私じゃなかった

私は学生時代、歌をやっていたのだが、そのときに特に仲の良かった二人。

いつも放課後は、私を含めて三人組でいることが多かった。


そのうちのひとりが、私の人生とは切っても切り離せない影響を与えた友人。

キリスト教を信仰している。


私は世界史が好きで、讃美歌が好きで、宗教学も宗教画も好きで、聖書も読んできた。

旧約聖書も、新約聖書も、コーランも原文ではないが、内容は一通り。


教会にも一時期通っていて、海外宣教師の方のお話も聞いたり。

ボランティア(奉仕活動)にも参加し、建前としては私もコミュニティの一員として振る舞い、礼拝も参加していた。


そのうえで、私はやはりこれまで通りの私でしかなかった。

これからも同じ私でしかない。

これはもう、諦念だ。


しかし、その空間も、大事な居場所であることに変わりはなく。

大学時代の空気感はグローバルだったので、異なる国籍も、信仰も、ジェンダーのことも、自然なこととして皆、互いに受け入れ合ってきた。

多様性のるつぼの中で、自分自身で居られる点で安心しきって日々を過ごしていた。

あれは夢だったのか?

本題。

先日、学生時代に仲の良かったもうひとりが、神様を信じたいと願い、教会に通い始めることを聞いた。


私は衝撃を受けた。

その人は、芯の強い人で、歌も上手く、踊りもやっていて、実家も裕福で。

私から見ると完全無欠で、これから先も順風満帆で、すべて手にしているように思われていたから。

理数系科目が得意で、よくテスト前に勉強を教えてもらっていた。


一方で当時の私はというと、浮き沈みの激しい気質を自分でコントロールできず、沈んでは周囲からよく指摘されていた。

その気分がどこからくるものか、自分でもさっぱりわかりかねていた。

内的要因か、外的要因かおそらく、どちらも。


長期休みが嫌で、放課後も学校にいたくて仕方なかった。

暗くなるまで、勉強を理由にクラスメートと一緒にいたかった。

当時は、とにかくどこかのコミュニティにいたかった。


登校拒否の気持ちも、引きこもりの気持ちもまるでわからなかった。

似たような脆い状態ではあっただろうけども。

そんなことがあったから、私じゃなかったのかと思った。その道を行くのは。

もちろん、私とその人は全然別の人生だというのもわかっている。

私とは関係のない、どこか遠くの決断と心境の変化だ。


二者択一のようなものではない。


しかし、分岐点のもう一方を行く、その友人の背中が見えるようなイメージが浮かぶ。

私は、そっちには行けないみたいだ。

友人は、友人である。

何かあれば駆けつけるし、助けたいと思う。

私もたくさん、それはもうたくさん助けられてきた。


信仰の違いではなく、思い出とか、もっと言葉にできない部分で繋がっているから、今後も関係性が変わることはない。

そこは揺るがずに信じることができると思う。


はて、今の私はいったい何者なのか。

人のあとばかりついていって、憧れを自身に投影しては、真似事ばかりしてきたものですから。



また変わり映えしない仕事の日々だ。

いち歯車でいられることが、今は少しだけ、落ち着く。

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