私は学生時代、歌をやっていたのだが、そのときに特に仲の良かった二人。
いつも放課後は、私を含めて三人組でいることが多かった。
そのうちのひとりが、私の人生とは切っても切り離せない影響を与えた友人。
キリスト教を信仰している。
私は世界史が好きで、讃美歌が好きで、宗教学も宗教画も好きで、聖書も読んできた。
旧約聖書も、新約聖書も、コーランも原文ではないが、内容は一通り。
教会にも一時期通っていて、海外宣教師の方のお話も聞いたり。
ボランティア(奉仕活動)にも参加し、建前としては私もコミュニティの一員として振る舞い、礼拝も参加していた。
そのうえで、私はやはりこれまで通りの私でしかなかった。
これからも同じ私でしかない。
これはもう、諦念だ。
しかし、その空間も、大事な居場所であることに変わりはなく。
大学時代の空気感はグローバルだったので、異なる国籍も、信仰も、ジェンダーのことも、自然なこととして皆、互いに受け入れ合ってきた。
多様性のるつぼの中で、自分自身で居られる点で安心しきって日々を過ごしていた。
あれは夢だったのか?
◇
本題。
先日、学生時代に仲の良かったもうひとりが、神様を信じたいと願い、教会に通い始めることを聞いた。
私は衝撃を受けた。
その人は、芯の強い人で、歌も上手く、踊りもやっていて、実家も裕福で。
私から見ると完全無欠で、これから先も順風満帆で、すべて手にしているように思われていたから。
理数系科目が得意で、よくテスト前に勉強を教えてもらっていた。
一方で当時の私はというと、浮き沈みの激しい気質を自分でコントロールできず、沈んでは周囲からよく指摘されていた。
その気分がどこからくるものか、自分でもさっぱりわかりかねていた。
内的要因か、外的要因かおそらく、どちらも。
長期休みが嫌で、放課後も学校にいたくて仕方なかった。
暗くなるまで、勉強を理由にクラスメートと一緒にいたかった。
当時は、とにかくどこかのコミュニティにいたかった。
登校拒否の気持ちも、引きこもりの気持ちもまるでわからなかった。
似たような脆い状態ではあっただろうけども。
◇
そんなことがあったから、私じゃなかったのかと思った。その道を行くのは。
もちろん、私とその人は全然別の人生だというのもわかっている。
私とは関係のない、どこか遠くの決断と心境の変化だ。
二者択一のようなものではない。
しかし、分岐点のもう一方を行く、その友人の背中が見えるようなイメージが浮かぶ。
私は、そっちには行けないみたいだ。
◇
友人は、友人である。
何かあれば駆けつけるし、助けたいと思う。
私もたくさん、それはもうたくさん助けられてきた。
信仰の違いではなく、思い出とか、もっと言葉にできない部分で繋がっているから、今後も関係性が変わることはない。
そこは揺るがずに信じることができると思う。
はて、今の私はいったい何者なのか。
人のあとばかりついていって、憧れを自身に投影しては、真似事ばかりしてきたものですから。
また変わり映えしない仕事の日々だ。
いち歯車でいられることが、今は少しだけ、落ち着く。