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ジプシーの歴史とイメージ形成をたどる試み #3 ロマン主義的に脚色されたジプシー像の流行

非ジプシーによって作られた、ジプシーの歴史とイメージ形成をたどる試みの第三弾です。

ジプシーと聞くと、どのような印象を持ちますか?

文学から得たイメージのみで語ると、
複数の大家族で馬車に住み、移動しながら音楽や占いを生業とする人々…
固有の言語・文化を共有しながら、ヨーロッパ各地に散らばっているひとつの民族、という印象があります。

果たして、そのようなロマンティックなイメージは誰からどのように発生したのでしょうか。


今回は、19世紀から爆発的に流行したロマン主義的に脚色されたジプシー像流行の経緯について書きます。


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ゴッホ 「ジプシーのキャンプとキャラバン」(1888) パリ、オルセー美術館

ロマン主義的に脚色されたジプシー像の流行

ジプシー愛好家を増やした作家、ジョージ・ボロウ

 19世紀にはいると、前回紹介したジプシーのインド起源を定説にしたドイツ人ハインリヒ・グレルマン(1753-1804)の継承者が現れます。

イングランドノーフォーク州生まれのジョージ・ボロウ(1803-81)です。
ボロウは、多言語話者であり、文学作家でした。

彼の経歴の特異さは幼少期に培われました。

郊外であるノーフォークにて、法律を学びながらも、もっぱら言語学に興味のあったボロウ。

学外でイタリア語、スペイン語を学び、ジプシーの友人と交流し、その言葉を身に着けたといいます。

この時期に養われた多言語話者の能力により、ジプシーとともにイギリス中を放浪し、聖書配布協会の推薦でヨーロッパ各地を訪問しました。

これらのジプシーとの交流から得た経験を基に、小説*1を出版したのです。

それらの「ジプシー小説」によって、ボロウの名は当時、ディケンズサッカレーと同じほど有名になったといわれています。


問題は前述の小説が、半自伝小説であったということなのです。。。

たしかに、ボロウはジプシーと放浪したとされていますが、あくまで自身の小説で語っていることにすぎません。

ボロウが実際にジプシーと関わっていたことは事実かもしれませんが、排他的なジプシーコミュニティにその一員として同化していたことは疑わしいです。

金銭と引き換えに情報を得ていた、とも言われています。

次々と執筆された彼の代表作となる『言語の達人 Lavengro』(1851)、『ジプシー紳士The Romany Rye』(1857)により、熱心な支持者は増えました。

繰り返しますが、ボロウは、グレルマンのジプシーのイメージを継承しています。

18世紀後半から20世紀初期にかけて定説となっていたグレルマンのジプシーインド起源説のことです。

このようにして、ジプシーのインド不可触選民出身説と、ロマン主義文学的要素が結び付いたのだといえましょう。

「グレルマンの比較言語学に基づく説を、ボロウが参与観察の実体験を以てして補強した」のだと。

ゆえに、このようなジプシー像は文化面だけでなく、実証的な研究にも長く影響を与えることになったと考えられるのです。



さて、今回はこのあたりで。

次回はいよいよ、ジプシー音楽について言及したいと思います。

お楽しみに(^-^)

◇さらに興味のある方へ、日本語で読めるおすすめ図書◇
フレーザー、A.『ジプシー 民族の歴史と文』訳:水谷 驍(2002)
水谷 驍『ジプシー史再考』(2018)
相沢久『ジプシー 漂泊の民』(1980)

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今日も読んでくださりありがとうございました!(^^♪

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*1:『ジンカリ、あるいはスペインのジプシーについて』(1851)、『スペインの聖書、あるいはイベリア半島で聖書販売を試みる一人のイングランド人の旅と冒険と投獄』(1857)

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