―砂漠を見たことのない人間に砂漠を描けるのでしょうか。
おはようございます。Clariceです。
何の話?ってなりますよね。朝からすみません。たわごとです。
私は引き続き、まったくの趣味でほそぼそと小説を書いてます。
そして、飽きもせず凝りもせず、投稿サイトにアップしているんです。
これから始まる新章では、砂漠の国を舞台にした冒険を書こうと思っていて。
それでね、砂漠って私行ったことないんですよ。そもそもそれじゃ書けないよねぇと思ってしまいました。
私のお粗末な小説の話はどうでもいいんですけど、見たことのないものって書けるのかという疑問がわきました。
安部公房さんは、『砂漠の思想』(1956)の中にこう書いています。
砂漠のような、プラスチックな風景は、風景として描いただけでは、どうしても一般的にならざるを得ないだろう。(中略)
これでは、砂漠を描写しろと言われても、「砂、砂…見わたすばかりの砂…はてしもない砂の波…」と、数行で書きつくしてしまい、後をつづけることのできない旅行者の作文と同じことではないか。
これは、砂漠をテーマにした映画についての論であり、砂漠の光景を具体性のあるものとして描くことの難しさを痛感させられます。
実際に現地でロケをしていても描き難いものを、これから私は文字で書こうとしているのかとおののいている次第です。
まぁ砂漠の本質に切り込むなんて大層なもんでもないんですけどね。
素人のままごとに偉大な作家様の話を持ち込むんじゃないという感じなんですが、そこは許してください(;^ω^)
本当に、実際に経験したことでないと本当の意味で表現なんてできないなぁと思うんですよね。
いくらテレビで見たところで、本で読んだところで、空気感や空間の広がりまではわからないと思います。
これって執筆だけでなくて、絵でも演技でも歌でも、何にだって共通することだと思うんですね。
それを補うのが想像力だろうともいいますが、それでも限りなく対象に近づく必要があると思います。
例えば、歴史を書くのだって、その時代に行くのは不可能ですが、跡地を訪れることは可能かもしれません。
当時書かれたものを読むことや、再現されたものを見ることでもやらないよりかはいいと思うんです。
はたして自分の場合はどうでしょう。
何であればその空気感まで思い描けるでしょうか。
森は描ける。空も描ける。海は描けますし、島国はもちろん描けますよね。
夜の海も描けることになるし、湖も描けます。(琵琶湖に育まれてきましたから)
ちょっと面白いところでは、
ほぼ中世そのままの姿の城壁都市はいけるんです。
馬車の車輪の音。石畳の階段。カーニバルもいけます。
ならば、オリーブやオレンジの樹が植わる庭もいけます。
それに引き換え、行ったことのない未知の場所は描けません。
同じく、経験したことのないことは描けません。
何だかんだリアリストな自分には宇宙も月面も異星人も未来も描けません。
(だから宇宙戦艦ヤマトやエヴァやガンダムやマクロスや進撃はすごい!!)
砂漠の話に戻ります。
大学の歴史学科の友人たちが、モロッコやウズベキスタンに行く計画を立てていたことがありました。みんな砂漠に向かおうとしていたようです。
イランに行きたいと言っていたこともありましたが、それはいくらなんでもと皆で止めたのを思い出しました。。
「イラクじゃないよ、イランだから」と物騒なことを言っておりましたが、そりゃ私だって危険がなかったら行きたいに決まってます。
まぁ、旅行に行けるのなんていつになるのやらです。
今は大人しく自宅待機です。
砂漠を見たことのない自分には、安部公房さんのいう「砂漠一般」の風景でさえ描けません。
取り急ぎ、レトルト惣菜で間に合わせてごまかすしか。
まずは、鳥取砂丘に行った時の日記を見返しましょう。
あと、大阪の万博跡地にある民族博物館で砂漠の展示があったので、そこで見た天幕の展示や駱駝の音声を思い出して間に合わせるとしましょう。
あとは、飛行機の乗り継ぎで一瞬居たドバイの空港で体感したあの異国感で乗り切りましょう。
外は砂っぽく乾燥していて、世界一高いタワーであるブルジュ・ハリファをガラス越しに見ました。
あとは、お土産屋さんが金ぴかで。。
この世界は見たいものと、それを基に表現したいことで溢れています。
(言うだけならタダだから言っとく)
とりあえず、身を守るための語学の勉強と体力をつけるところから。