こんにちは、Clariceです。
今日は、ヒルデガルトという中世を生きた修道女について取り上げたいと思います。
(タイトルは、我が敬愛する阿刀田高さんの「~を知っていますか」シリーズを意識しました)
はじめに
私が、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン / Hildegard von Bingen (1098-1179)という女性に興味を持ったのは、アロマテラピーについての文献を読んでいたときのことです。
心身両面に力を発揮するラベンダーの効能を広めた女性だということで、その名を知りました。
彼女は、幼いころから病弱で、修道院に入ってからは祈り、学びに勤しみ、38歳で修道院長にまでなったというではありませんか。
現在ドイツと呼ばれる地方の中世といえば、諸侯間の私闘(フェーデ)や血讐など自己救済の名を借りた暴力が横行していた時代であり、僧院などもそういった掠奪の対象の例外ではなかったのです。
そんなさまざまな外部の勢力の陰謀がはびこる時代に、彼女はどのように立ち回り、どんな功績を残したのでしょうか。
ちなみにヒルデガルト・フォン・ビンゲンという名は、ビンゲンに住むヒルデガルトという意味です。
ビンゲンは、ラインラント=プファルツ州に属する、現ドイツのライン川に接する地方都市の名です。(下記の写真参照)
実際には、ヒルデガルトはビンゲンの街に住んだことはありません。
彼女が創設したルーペルツベルク女子修道院が、ライン河を挟んで対岸にこの古都市を望むということが、その名の由来なんだとか。
◆祈りのこと
ヒルデガルトが修道院入りをしたのは、8歳の時。
彼女は生まれたときから虚弱体質であり、両親は病床でたびたび幻視(ビジョン)を見るこの10番目の娘を神にささげようと決意しました。
折しも近隣の領主の娘ユッタ・フォン・シュポンハイムがクラウゼ(男子修道院付の終身修道女の房)に入るということで、1106年にヒルデガルトは彼女のお付きとしてディジボーデンベルク修道院入りを果たします。
そこは、ベネディクト会の修道院であり「祈り、かつ働け」の精神を実践していました。
とくに、手仕事が重んじられました。
ヒルデガルトは、編物、裁縫、薬効の知識をユッタに教わりました。
ヒルデガルトにとって彼女は母親がわりであり、1136年に彼女が逝去した後もその生涯において確かな存在であり続けます。
のちに述べるヒルデガルトの観察や経験に基づく実証主義的な研究姿勢には、このような背景が影響しているといえそうです。
ヒルデガルトは、ユッタの設立した女子修道院の跡を継いで修道女たちの長になりました。
そんなある日、彼女が幼き頃より視てきたヴィジョン(幻視)を公開せよという神のお告げを受けます。
「か弱きものよ、灰の灰、黴の黴よ、汝の見るもの聞くものを言え、また書け!」と。
1141年、ヒルデガルトはついにこれまで異端と弾劾されるのを恐れ、ひた隠しにしてきた自身の不思議な幻視内容の記述に踏み切ります。
一修道女であるヒルデガルトは一般の男性聖職者と違い、スコラ学(神学、哲学、法学を含めた中世の学問形態のこと)にのっとった教養は受けず、ラテン語もプファルツ方言まじりでした。
そのため、重責からくる彼女の葛藤もただごとではなく、病に伏してしまいます。
しかし、彼女の教え子のひとりであるリヒャルディスの説得の甲斐あり、ここから彼女の処女作となる『スキヴィアス(道を知れ)』の執筆が始まりました。
また、『スキヴィアス』の執筆にはクラウゼの指導司祭であるフォルマ―ル修道士の助力失くしてはありえません。
ヒルデガルトの教養の大部分は、この修道士によるものでした。
それでも執筆は遅々として進みません。
絶えず不安に苛まれる彼女はついにクレルヴォ―のベルナールに書簡を送り、その心境を訴えます。ベルナールは当時、第二次十字軍を呼びかける使命を負っており、神学者、政治家として最重要人物でした。
そのときのベルナールの返事はそっけないものでしたが、彼はのちに行動をおこします。
一方、ディジボーデンベルクの修道院長クーノは、ヒルデガルトの幻視の正当性について依然懐疑的でした。
あるときクーノは、ヒルデガルトの幻視はもはや自分の手に負えないと考え、マインツ司教ハインリヒに持ち込みました。
報告を受けた教皇により、調査団がディジボーデンベルクに派遣され、フォルマール、ヒルデガルト、またクーノ自身にも厳しい調査・尋問が行われます。
そしてついに、1147年に開催された教皇エウゲニウス三世によるトリーア公会議にて、ヒルデガルトの『スキヴィアス』が読み上げられました。
クライマックスは教皇自ら読み上げました。読み終わると、会場には拍手が満ちたといいます。これは、高位聖職者として列席していたベルナールの後ろ盾のおかげでもありました。
この場において、正式にヒルデガルトのビジョンは教皇の認可を得たのでした。
『スキヴィアス』は1151年に無事完成します。
これ以後ヒルデガルトの名声が高まると、修道女志願者が彼女のもとに集まります。
彼女はルーペルツベルクに新しく修道院を建設し、以降はこちらに移りました。
1150年代後半になると、ヒルデガルトは、シュタウフェン王家の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ1世(赤ひげ王バルバロッサ)に謁見する機会に恵まれます。
この頃、神聖ローマ帝国は没落の一途をたどっていました。
時は12世紀。この時代は教皇か皇帝かどちらが上かという問題が、両者の間に常に緊張を生んでおりました。
本来ならば、神に仕える女子修道院長という立場のヒルデガルトは、教皇側に与するはずなのです。
しかし、あくまで中立的な態度を見せたヒルデガルトは、シュタウフェン家存続の祈りと未来の予言の代償として、バルバロッサから皇帝保護状を下賜されます。
これによりヒルデガルトの女子修道院の建つルーペルツべルクは、土地所有と諸権利、そして軍事防衛において帝国最高の永代保護ともとれるお墨付きを獲得するのです。
◆学びのこと
ヒルデガルトは『スキヴィアス』執筆ののち、自然学についての研究を著作にします。
写本として今に伝えられているのは、『自然学(フィジカ)』『治癒学』です。
しかし、むろん近代の自然科学によるものではありません。むしろ、民間療法、実践医学に近いものといえます。
中世の修道院と言うのは、病院や薬局の役割も負っていたため、自然観察は修道院入りしたヒルデガルトの幼少期より切っても切り離せないものでした。
しかし、驚くべきはその研究熱意です。
第一巻からその項目についてあげてゆきましょう。
植物の書、元素の書、樹木の書、石の書、魚の書、鳥の書、動物の書、爬虫類の書、鉱物の書。
これらの内容は、キリスト教の文化観を超え、見聞きしたことのない事物に関しては古代の文献を参考にしていると考えられる部分が多々あります。
プリニウス『博物誌』もそのうちのひとつです。
また、ヒルデガルトの生きた時代は、呪術的、魔術的な民間医療が中心ともいえる時代でしたから、迷信も多く含まれます。
植物の書には、悪魔的なものとしてロミオとジュリエットにも登場する毒性植物ベラドンナの効能や、魔物的な存在としての伝説を持つナス科のマンドラゴラ(マンドレイク)を抜いた時の対処法についても書き記されています。
石の書においては、「神の望まれたこと」として宝石の医療効用を認めています。
ちなみに、ヒルデガルトの宝石を処方に用いるという価値観は、聖書の文に依拠するものではありません。
民間に流通していたアラビア医学か、古代の博物誌に触れたか、宝石詩の作者と接触があったか、そのあたりは研究者の間でも可能性の域を出ないそうです。
それでも、彼女の実証経験の姿勢は、「近代的」に近いものでした。
「植物の書」には、薬草の効能の他に、穀類や豆類の料理術、栄養学、予防医学について書き記されているのです。
小麦、ライ麦、大豆、小豆、薬用として生姜、胡椒、ラベンダー等。百合、薔薇までも薬用植物に含まれています。
ちなみにヒルデガルトと言う名には、「庭園」の意味が込められています。
「ガルト」は'Garten'、そして「ヒルデ」'Hilde'は古語ドイツ語で「戦い」を意味するそうです。
これを、『庭園。パラダイスの文化』の著者であるヴォルフガンク・タイヒェルトは、中世の保護とアジールの関係と結びつけて論じています。
(アジールというのは聖域を意味する歴史的概念で、世俗権力の及ばない避難所のことです。教会や神社仏閣、そしてヨーロッパにおける自治都市などもこれに該当します)
中世という絶え間ない領地争いの暴力、病のはびこる乱世において、修道院は弱い立場に置かれた者が逃げ込む場所であったと。
ヒルデガルトにとって「庭園」「薬草園」はすなわちルーペルツベルクの修道院そのものであって、彼女はその場所を守り抜く母であり、戦士でもあったといえるのです。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
ヒルデガルトは、2012年にローマ教皇ベネディクト16世により女性としては4人目の教会博士の称号を受けました。
中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われます。
現代においても、ヒルデガルトの自然療法に依るハーブの本や料理レシピの本が書店の料理本コーナーに並んでいるのを見ました。
中世ドイツの修道女の知恵が、現在にまで受け継がれているって面白いですね。
私としては、調べていくうちに明らかになった病弱な身体だったにも関わらずうまく立ち回った彼女の生き方そのものに興味を持つという結果に終わりました。
◇参考文献◇
種村季弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』青土社(1994)
林信一郎監修『世界一やさしいアロマ図鑑』新星出版社(2020)
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました!(^^♪