印象をただよう告解部屋

キラリと思い浮かんだことあれこれ

記憶を綴じる物語について―印象ドラマの結びに代えて

こんばんは。

印象ドラマ・最終話のあとがきを書いていなかったので、ようやく書きます。

今回のお話は、世界の記憶にまつわる物語でした。


小説の題材のひとつとして自分の中で以前からありましたが、どうせだから視聴者参加型にしてみようと思いました。

ちょうどラジオを10回ほどやって、Vroidのフェイストラッキング機能にも慣れてきたことですし。

テーマパークのキャストさんがやるようなアトラクションの前座に憧れていたんです。


小説で文字として書くより、語り掛けることで仕込めるギミックがあって楽しかったです。

壮大な設定を第0~6話に落とし込むのは到底不可能でしたが、どんなに小さな物語でも幕を下ろしたあとは、寂しさと清々しさを覚えます。


古代ギリシアの吟遊詩人であるホメロスの『オデュッセイア』は、「ムーサよ、語れ」にはじまります。

ムーサというのは、ミューズとも呼ばれる、ギリシャ神話における諸芸術の9柱の女神です。

musicやmuseumの語源でもあります。

古来より物語、というのはやはり口伝にこそ本来の力があったのではなかろうか、と思います。


語り部によって、形を変えながら、時代に即した語り口で後世に継がれていく、ということ。

それを紐解いていく作業は、気が遠くなりますが、とてもエキサイティングです。

手法としては、フィールドワークをおいて他にありません。


日本には、マレビト信仰というものがあります。

コミュニティ外からの来訪者を「稀人」と呼び、神の化身として丁重にもてなすという古来からの民俗学的慣習。

今よりずっとずっと閉鎖的な社会において娯楽の少なかった時代―

人々は外部から持ち込まれる新しい技術を、そして「物語」を強烈に欲していたのだと思われます。


15世紀頃、京都で500人ほど活動していたといわれる琵琶法師は、その多くが盲目の僧であったと。

ホメロスも盲目の吟遊詩人。

俗世の視覚情報が絶たれているぶん、言葉が強烈な鮮やかさをもって、事々が「物語られた」のではないでしょうか。


世界の膨大な量の「物語」が綴じられていて、謎の機関によってどこか一か所に集められているとしたら。

(イメージ元は、アカシックレコード、とか?

いえいえ、ボルヘスです)

必要に応じて、その場所に自由にアクセスできたら、という空想を、二名の登場人物の口を借りて物語ってみました。


架空の人物かというと、そうと言い切れないのがミソです。

二人とも作者のなかに、確かに存在しますから。

これを多重人格的なものと思ったことはないですけど、創作するときはいつも人物を作りこみ、憑依(?)感覚で取り組みます。

イマジナリ―フレンドとかも、こういった感じに近いんでしょうかね。


話が逸れましたが、人は忘れる生き物です。

新しいことを覚えても、月日がたてば徐々に薄まっていき、やがて忘れてしまうことが多いです。


だから、閉じ込めておきます。

写真なり、動画なり、日記なり、雑記帳なり。

デジタルで無制限に記録を残せるブログは、こういうのにうってつけでしょう。


見返すと、ああそうだった、と思い返すことができます。

そうして、何かの折に繰り返すうちに、点を線としてたどれるのだと思います。

これまでの軌跡を、です。


だから、想いの記録は、何よりも自分のためになると思います。

それを何らかの形で、昇華することができれば「再生産」、それが語りであれば「再話」となります。

そのようにして形を変えた教訓話も多いでしょう。世界に散らばる寓話。

私が歴史学に興味を持ったきっかけのひとつは、阿部謹也先生の『ハーメルンの笛吹き男─伝説とその世界』です。

古来、物語と歴史は分かちがたい強い結びつきがあります。


ここに、ファンタジー世界線にある我が告解部屋のルーツが「再話」されたのかもしれません。




今日も最後まで読んでくださりありがとうございました!(^^♪
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最後のイラストは、私のアイコンを描いてくれたモノリスさんの作品です^^

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