今日は、朝から奈良県は吉野の桜を見に行った。
和歌山県の高野山と熊野三山、およびこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素として。
死ぬまでに吉野の桜は絶対見てみたいと思っていたが、今日しかない!と思い立ち、出立。
自分が吉野に惹かれるのは、義経好きだから。
奥州平泉にも行きたいのだが、まだ足を運べていない。
自分はもと西洋史専攻で日本史(特に人気の高い戦国時代とか幕末とか)は疎いのだ。。
後世の作品などでかなり美化されたイメージなのだろうとは思うけれど。
そうそう、人形浄瑠璃の「義経千本桜」もいつか観てみたいと思っている。
行きたい史跡やカフェとともに吉野にゆかりのある歴史や和歌は、長い電車旅で調べた。
スマホひとつあればどうにでもなるのである。
ーcontentsー
◇和歌における吉野のイメージ変遷
百人一首に吉野って何首か出てくるけど、「吉野の里に降れる白雪」とか「ふるさと寒く衣打つなり」とか寒いイメージの歌ばかりなの。
それというのも、日本古代において吉野と聞いて連想する情景といえば山深くの雪景色だったそうだ。
そのイメージを一新したのが、西行法師(1118-1190)。俗名・佐藤 義清(さとう のりきよ)。
平安後期から鎌倉初期の時代を生きたこの人物が、吉野山の奥地に庵を建て、吉野の桜を歌う和歌を多く残したことからそのイメージが広く根付いたのだという。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
──『山家集』
この歌は西行が、病の床で読んだ句。
花は桜のことで、最期まで桜を愛していたことがうかがえる。
江戸時代前期の俳諧師である松尾芭蕉も、西行の和歌スタイルに影響を受けて旅をしながら歌を詠んだのである。
あと、花札にある赤丹桜の短冊。そこに書かれている「みよしの」も吉野を指す語だ。
さて、とっかかりはこんな感じで。
ここからは、旅しながら学んでゆく!!
◇吉野駅
昼過ぎに到着。片道3時間かけて行った笑。
無計画なひとり旅だったので、観光案内所でおばちゃんにおすすめコースを教えてもらう。
「義経さんに会いに来ました~」って言ったら、それならばココとココよ、と地図をもらった。
お礼を言っていざ出発!!
案内所の前に、桜柄のポスト発見。
お土産屋さんがお出迎え。そして、バス停とケーブルカー乗り場がある。
いってきます!!片道450円。
歩いても登れるコースがあるが、15分くらいかかるそう。
私はケーブルに乗りたかったの。高いところ大好き。
私が乗ったのは、さくら号。
向かい側からかえで号がやってきて、みんな窓越しに手を振ってた。
あっという間に到着。
◇黒門
吉野一山の総門。
こちらの門は、高麗門という様式で城郭にしばしば用いられていた。
いかなる公家大名も、この門を通るときは槍を伏せ馬を降りて通行したのだとか。
現在の姿は昭和60年に建て直されたもの。
・道中
いかにもなお店があった。
店主が狐の面をつけて銅の鍋の中で、ざざーっざざーっと栗をかきまぜている。
もちろん笛や太鼓の楽も流れていた。
こちらは、いい雰囲気の日よけ。のどかだ。
お風呂や旅館もちらほらあるの。いいなぁ!!のれんのフォントが可愛い。
◇金峰山寺(きんぷせんじ)
・蔵王堂
この寺は修験道の根本寺院だそうだ。
修験道というのは、山伏や修験者と呼ばれる山林修行者たちを中心とした日本古来の山岳信仰だ。
仏教に取り入れられた神道的な日本独自の宗教形態だといえる。
もともと日本は精霊信仰や自然崇拝の宗教観が根付いていたのだが、仏教が伝来し、吉野にも寺が次々と建つようになった。
そのような融合が独自の密教的な山岳信仰文化を生んだことから、この一帯は世界遺産のなかでもさらに「文化的景観」を有する遺産としてユネスコに認められている。
(というようなことを昔、世界遺産検定で勉強した)
近づいてみると、大迫力だった。
木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさだそう。
権威をふるっていたその昔、真言密教の高野山金剛峯寺とは寺領をめぐってもめたそうな。
寺とか絶対に軒裏を見る。極めたら見ただけで建立時代を推測できるようになるみたい。
・吉野朝宮跡
そう、ここ吉野は後醍醐天皇が京を追われたのちに朝廷を開いた場所でもある。
後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後に、後援であった足利尊氏に離反され吉野で復興のチャンスをうかがっていた。
これが今では京の「北朝」、吉野の「南朝」と呼ばれ、南北朝時代の幕開けとなる。
後醍醐天皇はついぞ復活を果たすことなく御年52歳で病により崩御。
後醍醐天皇は和歌にも造詣が深い。
袖かへす 天つ乙女も 思ひ出いでよ 吉野の宮の むかし語がたりを
—後醍醐院御製、『新拾遺和歌集』冬・622
大意・袖をひるがえして舞う五節舞の天女に等しいあなたも、どうか思い出して欲しい。吉野の宮の昔語りを。時の帝である天武天皇が、吉野に舞い降りたあなたの優雅さに呆然として、「天つ乙女が 天女らしく舞うことよ 唐玉を 袂に巻いて 天女らしく舞うことよ」と高らかに歌った、あの日のことをー
この歌は、新正妃となった20歳以上年齢差のある妻に詠んだもの。
政略結婚だったが、この歌を贈り心を尽くしたのだとか。
この時代、和歌は政治道具としても有用であった。
しかし、後醍醐天皇は和歌の庇護者として確かに当時の文芸の面に貢献したといえる。
この南朝宮跡は、後醍醐天皇の無念さとかこの世の儚さをひしひしと感じる場所だったけれども、
この歌碑を見つけて、なんだか心が温まった。
旅はまだ続く。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました!(^^♪