こんばんは、絵画美術も好きなClariceです。
当記事は、印象派画家についてのゆるい解説パート2です。
今回は、彼らを取り巻く歴史的背景に注目して書いていきます。
前回の記事はこちらから。
↓↓
lavandula-pinnata.hatenablog.com
ーcontentsー
クロード・モネ『散歩、日傘をさす女』(1875)
◇「みんなだいすき」ではなかった時代
今や日本で大人気の印象派の絵画。
しかし、時は19世紀フランス。
かつて印象派絵画は「みんなだいすき」な画風ではなかったのです。
極めて異質で、受け入れがたいとされていました。
その背景には、アングルやダヴィットらの「新古典主義」の絵画が正義とされていたというのがあります。
芸術は高尚である!こうあるべきという理想美の追求!
ダヴィットにより描かれたナポレオンの肖像画がすべてを物語ります。
Bonaparte franchissant le Grand-Saint-Bernard(1801)
ナポレオンは、ダヴィットに「顔など似ていなくていい、偉大さを伝えよ」と言ったそうな。
この理想的な英雄像は、民衆への強烈なプロパガンダになったのです。
さて、モネやルノワールらは王立アカデミー主催のサロンに落選し、自主的に印象派展を開きます。
しかし、印象派画家らの新しい画風が、批評家ルイ・ルロワにより仕上がっていない「未完成」な作品だと紙面でやり玉にあげられます。
それでもめげずに印象派展はメンバーを集めながら(ドガ一派が他メンバーと仲間割れもしながら笑)、第八回まで行われます。
最終的に会員数は50人を超えたとか。
◇印象派の絵は新大陸アメリカへ
印象派画家が今日のような人気を博したのには印象派画家たちの長年の協力者、画商デュラン=リュエルの存在なくしては語れません。
彼は印象派の絵を売るために、自ら新大陸へと蒸気船で赴きました。
そしてなんと印象派の絵は、自由の国アメリカで評価を得ます。
そういうわけで、印象派の作品はアメリカの美術館にも数多く所蔵されているのです。
モネは、アメリカ嫌いなんですけどね。。
しかし、そのおかげで本国フランスでも印象派の絵の価値が高まり、認知されるようになります。
非常に貧しい時代を画家仲間たちと生きたモネ。
晩年には連作『積藁』『ルーアン大聖堂』『睡蓮』が大人気を博し、その勢いは彼の住まいのあるジヴェルニーにまで及んだんですって。
『積みわら - 夏の終わり』(1890-1891)
『ルーアン大聖堂:西面、陽光』(1894)
モネは晩年、フランスの首相を二期務めたジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)とも交流がありました。
モネが白内障の手術を乗り越えて描き上げた、大壁画『睡蓮』は国に寄贈され、オランジュリー美術館の特別展示室で見ることができます。