こんにちは。
印象主義と呼ばれる芸術運動によって生まれた絵画をこよなく愛するClariceです。
今回は、印象派が興隆するまでの流れを歴史を交えつつ解説します。
雑談からはじまったシリーズものなので、まだの方はpart1から読んでみてください。
lavandula-pinnata.hatenablog.com
lavandula-pinnata.hatenablog.com
美術鑑賞というのは、特に鑑賞者の感性によって作風の好みも分かれますが、
美術作品を歴史と照らし合わせて当時を紐解く面白さに少しでも触れてもらえたらと思い、せっかくなので印象派美術シリーズの続きとさせてもらいました。
◇印象主義誕生までのおおまかな流れ
・18世紀、ロココ美術 フランス
時を、18世紀までさかのぼりましょう。
西洋美術史の流れを汲むと、このころの芸術の舞台はフランス。
このころの有名な作品は、もう右も左もロココまみれ。
宮廷文化をあらわす貴族趣味の軽やかで女性的な作風が、大流行していました。
シテール島は、恋愛成就のいわれがあり、当時の人々はこぞって訪れました。
愛の寓意として、キューピッドがよく画面に描かれます。
これまさに、暇をもてあました貴族の遊び。
ちなみに、「ロココ」という言葉は、ロカイユという石やサンゴ、貝殻の形状を指すイタリア語に起源があります。
ロカイユは、17世紀バロック美術の時代に流行した古代ローマの遺跡を模倣した人工洞窟の飾りとして用いられていました。
「バロック」という語は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」を指すbarrocoという語に由来し…とルーツを辿っていけばキリがないので、話を18世紀に戻します。
・18世紀、新古典主義 イギリス、フランス、イタリア
1760年にイギリスにてはじまった、産業革命の波が世界を飲み込んでいきます。
歴史的に非常に大きな転機となる時代でした。
貴族社会の崩壊とともに、社会環境やひとびとの価値観といったものがまったく新しいものに変わります。
芸術は、倫理や理性を重視する「新古典」という理想へと向かってゆきます。
これまでは、古典の軽薄で官能的な神話モチーフを理想とする風潮に偏りすぎたということで。。
ナポレオンの宮廷画家となり『ナポレオンの戴冠式』を描いたダヴィッドや、色彩よりもデッサン重視のアングルが、理性、倫理、合理性を理想美として数々の作品を残しています。
18世紀といえば、紀元79年にヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれたポンペイやヘルクラネウムが発掘された時期であり、
当時の人々は考古学ブームに熱狂しました。再びギリシアローマへの憧憬が高まってゆきます。
そのような考古学的な正確性を求めるという風潮も、新古典主義の作風に大きく影響を与えたのです。
・19世紀 初期~中期、ロマン主義 スペイン、フランス
19世紀になると、絵画のテーマはより個人的なモチーフを扱うものへと変化しはじめます。
激動感、大胆な構図と筆致によるドラマティックな作風です。
アカデミックな新古典の作風に限界を感じた画家たちが、既存に反して感覚重視に振り切った表現を模索しはじめたのです。
扱われるモチーフは、聖書よりも時事ネタが多くなります。
この絵は、ロマン主義を代表する画家ゴヤが、ナポレオン軍の侵攻によりスペインの民衆が殺される瞬間を切り取った絵です。
そもそもロマン主義というのは、文学からおこった芸術運動であるため、小説の一場面などもしばしば題材に選ばれました。
「民衆を導く自由の女神」で有名なドラクロワも、シェイクスピアの『ハムレット』の名場面「オフィーリアの死」という作品を描いています。
ロマン主義の画家たちは、新古典主義の啓蒙的で堅苦しい画風への反動から、劇的な場面を切り取った題材を用いて感覚的で奔放な作品を描き、
またそういった作品が世間で評価されるようになったのでした。
こうした時代背景とともに新古典主義は、どんどんと劣勢になっていきます。
・19世紀 初期~中期、ロマン主義 ドイツ、イギリス
イギリスやドイツでは、風景画にロマン主義的傾向があらわれます。
戦艦テメレール号は、1805年トラファルガーの海戦にて、ネルソン提督ひきいるイギリス海軍が、当時勢いの強かったナポレオン軍に勝利した船です。
ナポレオンのイギリス本土上陸の野望を打ち砕いたかつての英雄の最期を見送る哀愁が、鮮烈な夕日との対比によって、よりいっそう強調されて見えます。
光と色彩に魅せられた、ターナーの絵です。
大気の動きをも筆で捉えようとした様子が絵から伝わってきます。
ドイツロマン主義を代表するフリードリヒの絵には、雄大な自然への畏敬が表れています。
宗教観に根差した深い精神性を感じさせられます。
・19世紀中期、写実主義 フランス
19世紀も中頃になると、過剰演出的な色の強いロマン主義への反動として、次はありのままの現実を描こうとの動きが現れます。
人間の営み、特に労働者をありのまま描こう、という風潮を写実主義(レアリスム)と呼びます。
(ここで注意したいのが、風景画に「写実主義」という言葉は用いないこと。それは、単に自然主義といいます。
写実主義はあくまでも人間をありのまま描くという意味を強く含んでいます)
クールベは上の「オルナンの葬式」を、名もなき人々の風俗画として、7メートルもの大作に仕上げ、フランスの由緒正しき芸術発表の場であるサロンに出品しました。
伝統を重視するアカデミーからは非難轟々の末、1855年のパリ万国博覧会への参加を拒絶されます。
ミレーは、旧約聖書ルツ記に登場する 「落穂拾い」のシーンをオマージュして、農民の風俗画におとし込みました。
この絵は、プロテスタント系の教会に飾られているのを目にしたことがあります。
・19世紀中期、写実主義 バルビゾン派 フランス
このころ、フランスのバルビゾン村に画家のコミュニティができていました。
写生のための自然豊かな土地を求めてやってきた画家たちはこの村に居住し、近接するフォンテーヌブローの森などで制作に励みました。
彼らのことをバルビゾン派と呼びます。
農民の労働風景を好んで描いたミレーや、銀灰色の色調で風景画を描いたコローがその中心人物として有名です。
そして、水の画家と呼ばれるドービニー。彼はしばしば印象派の先駆者と呼ばれています。
ドービニーは、アトリエ船「ボタン号」を自作し、船上で絵画の制作をしました。
この制作スタイルは、印象派の中心的人物として才覚をあらわすクロード・モネに影響を与えます。
彼は1868年にはサロンの審査委員を務め、後に印象派を担う事になる画家たちの絵を積極的に評価しました。
モネの他にも、ピサロ、バジール、ドガ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾの絵を入選させました。
余談ですが、ドービニーは、ゴッホの描いた「ドービニーの庭」の邸宅の主です。
ゴッホはドービニーを敬愛していました。↓
さらに、バルビゾン派の画家と交流のあった風景画家ウジェーヌ・ブーダンが、このドービニーの印象派に対する肯定的な評価に賛同しています。
彼は、クールベやコローから「空の王者」と呼ばれ、日光の下で自然描写を試みる「外光派」の一人として、モネに外に出て絵を描くことを教えました。
当時16歳の少年でカリカチュアを売って生活していたモネの才能を見出し、本格的な絵画制作の世界に導いたのは、このブーダンです。
その後も、印象派はサロンで非難を浴び続け、紙面で酷評されながらも徐々に価値を認められるようになります。
このお話は、前回の記事で書いたので割愛します。
◇印象派の夜明け
これらの芸術の系譜を踏まえて、いまもなお愛されるモネの絵がこちら。
現在大阪にて開催されている「印象派 光の系譜」展にて拝んでまいりました。
モネは生涯のうちに連作「睡蓮」をそれはもうたくさん描きましたが、美術館いわく、当たり年といわれる1907年に描かれたこの作品は「会心」だそうで。
私もこれまで各所の常設展と特別展の両方にて、いくつもの睡蓮を見てきましたが、一番美しいと感じました。
写真撮影可能ということで、この記事の締めくくりとして掲載いたしました。
加工編集等は加えておりません。照明そのままの、色です。
◇おわりに
わかりやすくなるように時代順に並べて、書きましたが、必ずしもひとつの時代が○○主義一色というわけではないのです。
同時多発的にいくつかの芸術運動が起こっていたこともありますし、バロックはイタリア、ロココはフランス…と限られた国のみでその芸術が独占されていたというわけでは決してないです。
あくまでこの西洋美術史でよく言及される流れを軸として、どんどん興味関心を広げていけばますます芸術の多様性、奥深さを感じることができて、面白くなると思います。
ものごとというのは、本当にいろんな角度から見ることができて、あらゆる分野を知れば知るほど、意外な点でつながって面白くなると思いました。
印象派シリーズは、これからも続きます。
◇参考文献◇
・杉全美帆子『イラストで読む印象派の画家たち』河出書房新社(2013)
・早坂優子『鑑賞のための美術史入門』視覚デザイン研究所(2006)
美術鑑賞エッセイも書きました。
よろしければこちらも。
↓↓
kakuyomu.jp
最後まで読んでくださりありがとうございました!(^^♪