九つだけの家が建ち、shito、shitoと雨の降る村へ、出稼ぎから男が帰ってくる。だが、家にいたのは女房と、顔中に髭を生やした熊のような男。
もしかして俺はほんとうは死んでいて、あの見知らぬ男がおれの生前の姿なのだろうか―?(「Jiufenの村は九つぶん」)チベット、台湾、クアラルンプール…。
遥かなる土地の記憶を旅する幻想短編集。第69回芸術選奨部文部科学大臣新人賞受賞作。
自分の好みどまんなかの本だった。求めていた、旅する幻想文学。
短編集となっており、アジア諸都市を舞台に繰り広げられる物語が、ときに閉鎖的に、ときに開放的に展開される。
収録作品は以下の通り。
「…そしてまた文字を記していると」―チベット
「jiufenの村は九つぶん」―台湾、九份
「国際友誼」ー京都
「船は来ない」ーインド、コーチン
「天蓋歩行」ーマレーシア、クアラルンプールほか
各話につながりはないのだが、全体を通して貫かれている、筆者の「言葉」に対する真摯な姿勢が印象深かった。
私的に一番良かったのは、最初の「…そしてまた文字を記していると」という話。
チベットの僧院で、少年から青年への過渡期にある僧が、小さな明かりのそばで写経している。
僧は考える。
ある地方では、書物とは「世界を映すもの」「世界を描いて閉じ込めた鏡のごときもの」と信じられているらしいが、それはまったく無知ゆえの思考だと。
その僧にとっては、まったく逆であり「書物とは世界そのもの」だという。彼は、岩山にぽつんと建つ僧院のなかで暮らす。
何千、何万という経典のなかに、この世のあるべき姿はすべて閉じ込められているのであり、世界は書物の記述から再形成されているのだと。
そのために、僧たちは経を読むのだと。
文字はそうして、僧院の、書物のなかから、経の発声を通じて、この世に放たれるというものなのだと。
ある土地にずっと暮らす者にとっては、その世界がすべてとなる。
それを覗き見る感覚が楽しい。
◇
「天蓋歩行」は、前世が巨大樹であったという男の話。
マレーシア、クアラルンプールを舞台に、昔語りを交えつつ、悠久のときを人の形をとって生きる樹の視点。
天蓋は、おそらく樹幹のことであろう。
彼は樹であったころ、森には真菌が神経のように張り巡らされ、それを通して親類の樹たちと意思疎通をはかっていたという。
茸の形は海月にそっくりで、それは成分のほとんどを水に頼る性質であるためかと男は考えたりするのだが、そういった発想が独創的で楽しい。
彼のほかにも前世が鹿だったもの、蝙蝠だったもの、蟻、虹、、遠い記憶を持つ者たちがいる。
クアラルンプールは、マレーシア語で「泥の川のあわさるところ」という意味だ。
豊かな森林世界の描写と、石油資本のあふれる現代都市を往還しながら紡がれる樹の話は、読者を不思議な感覚にいざなう。
樹は、森は、土地は、同じ場所に変わらず、在る。
時間の流れが、住みついた人間が、土地の姿を変えてゆく。
この世界は、まさに淘汰で成り立っているという。
◇
こういう不思議な体験ができるのは、歴史にどっぷりつかっているときと、旅をしているとき。
それを、家にいながら読書を通じて追体験できるというのは、ありがたいことだと思う。
谷崎由依さんの感性は、非常に繊細かつユーモラス。
そういえば、「国際友誼」で書かれていた京都の大学生の話は、谷崎さんご本人の体験に基づいているのだろうと感じた。
調べてみると、著者は京都大学文学部の美学美術史学科の卒業生だという。
大学生活は京都にどっぷりだったのだろう。
私の好きな作家さんはみんな京都で(いい意味で)大学生をこじらせている気がするなぁ。
同じく京大出身の森見登美彦さんはその典型だし、山尾悠子さんも同志社文学部卒で、現実と幻想の交錯する不思議な短編を書かれていた。
土地にはインスピレーションを刺激する、不思議な魔力があるのだろう。
谷崎さんの作品も、もっと読んでみたいと思った。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました!(^^♪