印象をただよう告解部屋

キラリと思い浮かんだことあれこれ

もし工場の女子現場監督がマキアヴェッリの『君主論』を読んだら

このタイトルを書くためだけに『君主論』を読んだと言っても過言ではありません。

だから、この時点で今回の目的は果たされたといってよいでしょう。

君主論』の読後はというと、私はその時代背景と著者二コロ・マキアヴェッリ自身の執筆背景が気になりました。

この著作は、それらを知ってはじめてマキアヴェッリの問題提起について考えることができるといえます。

よって、時代背景、著者自身の境遇を踏まえたうえで、『君主論』は現代人にとってどのような学びを得ることができるかについて、考えてみました。






◇はじめに

私は現在進行形で、マネジメントに悩める身の上なのですが、行き詰まった去年、上司の勧めで『もしドラ』、ドラッカー『マネジメント』を読みました。

しかし、多様な雇用形態のスタッフへのアプローチという点で答えを得られず、マネジメント系の本を読みながら、迷走のなか『君主論』に手を伸ばしました。

むろん時代錯誤は承知の上で。

ちなみにGeminiに「君主論はマネジメントに使えるか」と聞いたら、「時代に合わない部分があるから危険」と叱られました。

史学科出身の友人たちもドン引き。

その時代錯誤も含めて、周縁から学ぶことにしたのです。

だから、強い思想とは無縁な、純粋きわまりない?知的好奇心が発端。

なぜに強いリーダーが必要とされるのか?それは悪なのか?


マキアヴェリズムというと「独裁者」のイメージとして今日の善男善女に叩かれまくるワード。

目的のために手段を選ばない、という点で冷酷非道な思想とされ、発刊後、カトリックの教えに反するという点でローマ教皇庁により禁書目録にも加えられました。
(しかし、1966年には禁書目録自体が廃止されています)

君主論』(中央文庫、池田廉訳)を読み、まぁ当然ですが現代の感覚とは時代も文化も危機感も違うと感じました。

帯には、「本書のノウハウは21世紀のマネージメントでも十分通用する」と書いていました。

これを真に受けて、原文ママ使う人が居たらそれは確かに危険物以外の何ものでもないでしょう。

500年前というと、日本では室町時代の終盤にあたります。


このような一次史料にあたるときは、著者の立場と時代背景を見よというのが鉄則であるからして、私はそれらを知ることに決めました。

塩野七生先生の『わが友マキアヴェッリ』(1987刊行)、文庫本にして全三巻。

こちらもタイトルからして、偏っているのは百も承知ですが、楽しみながら手っ取り早く時代背景を追いたかったので。

もはや書くまでもないですが、歴史小説で注意すべきは、史実を基礎に、史料として残っていない空白部分を推測と想像で補っているということ。

塩野先生は著作の中でそれらの部分に言及するたび丁寧に断りを入れてくださるお方。

だから、先生の著作に対して歴史学歴史小説は別物ではというのは今さら愚問なのです。



◇独裁者の教科書か


マキアヴェリズムと関連付けて言及されるのは、ナポレオン、ムッソリーニヒトラースターリン等々。

君主論』がこれらの独裁者の愛読書とされていた、という逸話には事欠かきません。


はたして『君主論』にはどのような内容が書かれているのでしょうか。

まずは、さまざまな国や都市の統治において、どのような治め方が適切かが場合ごとに解説されます。

第一章 君主国にはどんな種類があり、その国々はどのような手段で征服されたか
第二章 世襲君主制
第三章 混成型の君主制

第五章 都市、あるいは国を治めるにあたって、征服以前に、民衆が自治のもとで暮らしてきたばあい、どうすればよいか

第十二章 武力の種類、なかでも傭兵軍
第十三章 外国支援軍、混成軍、自国軍

このあたりを見ているだけでも、悩める者にとっては即座に内容が知りたくなるような、実に読者の心をつかむ内容となっています。

続く、理想的な君主像について論じられた部分が、今日有名な箇所かと思います。


マキアヴェッリは、成功をおさめるために必要な三大要素として、「ヴィルトゥ(力量)」「フォルトゥーナ(好運)」そして「時代性(ネチェシタ)」をあげます。

注目すべきは、3つ目の時代への合致性。
本著作が混迷の時代に書かれたという点でかなり重要なポイントです。

さらに、第25章には、運命というものについて、興味深いことが書かれています。

この世のことは運命と神の支配に任されているとしたうえで、しかしそれによって自由意志は奪われてはならず、その半分は我々の支配に任されていると。

そのあと、色々とその例をあげ、結論としてこう書いています。

運命とは変化するものだから、人が自己流にこだわる場合、運命と人の生き方が合致すれば成功するし、そうでなければ不幸を見る。

また、運命は女性のようなものだから、慎重になるよりは大胆に、果敢になるほうが味方してくれると締めくくります。

このような発想が、人間マキアヴェッリの面白さ。彼は、喜劇作家でもありました。


◇時代背景


この本が書かれたのは、ルネサンスも終焉の16世紀初頭。

当時のイタリアはひとつの国家ではなく、都市国家の集まりでした。

二コロ・マキアヴェッリが生まれ育ったフィレンツェ共和国ローマ教皇領、ナポリ王国ミラノ公国ヴェネツィア共和国、さらに三十近くある小国。

そしていつ大軍を率いて攻めて来るともしれない強大なフランス、スペイン、神聖ローマ、トルコ。

周囲を強国に囲まれ、目まぐるしく変わる情勢に、群立する都市国家は情報収集力と賢明な立ち回りが要求されていたのです。


人の集まる土地には、まず経済活動が生まれ、次に政治、続いて文化が花開くといいます。

この頃のフィレンツェは、栄華をきわめたメディチ最盛期も終わり、政治が機能不全に陥っていた時代でした。

1115年にはじまり、1532年に終焉を迎えたフィレンツェ共和国の歴史は「内ゲバ」。(ダンテも有名な現場証人のうちのひとり)

民衆も、強大な権力と財力を持つメディチを褒めたたえ、追い出したと思えば、迎え入れ、また追い出し、という始末。

このような共和政体の一貫性のなさは、政治的優柔不断に陥り、有事の判断が遅れ、掠奪され尽くしたうえで不利な講和が結ばれます。


マキアヴェッリが官僚になる前からフィレンツェ共和国は混沌としていました。

民衆の手によってメディチが追い出されたのちのこと。

フランス軍が迫り、共和国が恐怖に包まれるなか民衆を扇動したのはドミニコ派の修道士サヴォナローラ

過激な説法を繰り広げ、メディチ家による共和国全体の腐敗と贅沢を諸悪の根源として神の怒りを鎮めるために質素な暮らしを説きます。

サヴォナローラが今日まで芸術愛好家たちの恨みを買う、あまりにも有名なエピソード。

1497年の謝肉祭の日に、価値ある美術品骨董品、いわゆる贅沢の象徴となるものを広場で積み上げ、盛大に燃やして見世物にします。

そして、親フランス政策に舵を切り、フィレンツェ共和国は周辺の国々から恨みを買って孤立します。

結局、このサヴォナローラも広場で民衆の手によって逮捕され吊るされて火あぶりの刑に処され、アルノ河に投げ捨てられました。


このような政情不安定を経て、『君主論』は憂国の念に駆られたマキアヴェッリによって、危機を打破する必要性を胸に執筆されたという側面があります。

ただ、マキアヴェッリ君主制独裁制を推したわけではありません。

政体は何でもよいとの考え。

それよりも、著作『政略論』では、一刻の猶予もない危機的状況において判断を遅らせないためには、古代ローマ時代の「独裁執政官制度」のようなものを臨時的に機能できる体制をと提案しています。

共和制における政治上の手続きは非常にゆっくりで、意志の統一をはかるのに時間が必要なために。

このあとは、いち人間としてのマキアヴェッリの執筆背景に迫ります。



◇執筆環境


マキアヴェッリは非大学出のノンキャリにもかかわらず、その才を市民たちに認められ、投票でフィレンツェ共和国第二書記局書記官に選ばれました。

優秀で仕事好きなため、政府にとって使い勝手の良い人材だったマキアヴェッリは、共和国大統領ピエロ・ソデリーニの側近として事務次官のような仕事ぶりを発揮します。

しかし、ついに起こったクーデターの影響で失職。

しばらく追放されていたメディチ家の人間がクーデターを起こし、無血で共和国のトップに返り咲いたのです。

官僚マキアヴェッリの上司であったソデリー二は相手の要求をのみ、アドリア海沿岸部に逃げ、隠居しました。

このソデリーニという共和国大統領が、実に民主的で、法の人で、なんでも議会にかけるタイプでした。

その性質から、権力集中に拒否反応を示すフィレンツェの民衆によって、終身大統領に担ぎ上げられたという経緯があります。


マキアヴェッリは、多大な仕事を抱えた政府のキーパーソンだとの自負があったために、メディチ復帰後も公務員として残れると思っていたようです。

しかし多くの仲間たちとは違い、ソデリーニの側近中の側近だったという理由から、職を追放されたのでした。

(彼の賛同者で補佐役だったビアジオ・ブォナコルシも免職処分)


様々な仕事を抱え込んでいたマキアヴェッリのポストは、第二書記局書記官としての外交官、交渉役としてだけでなく、軍事面などその他多くの権限や役職を持ってしまったために、スパイに最適なポストとして別の人間があてがわれました。

そして、ひょんなことから反メディチの陰謀計画に加担しているとの疑いをかけられ(とばっちりであった)、牢獄で拷問を受けることになります。

しかし、詰めても何も出てこず、祝祭のタイミングで釈放されました。

他の名家の出の仲間たちとは違い、葡萄酒組合の息子であったマキアヴェッリは、失職による困窮もあり、家族をつれてフィレンツェをひきあげます。

そして、山荘にこもり、詩などを読みつつ執筆に精を出したのでした。

ダンテやペトラルカなどを読んでは、酒場に出かけ賭け事に興じる日々だったとか。

このとき書かれたのが、『君主論(プリンチペ)』や『政略論(ディスコルシ)』です。


当時のマキアヴェッリの心情は、元同僚のひとりであるフランシスコ・ヴェットーリとの往復書簡に明らかとなっています。

生粋のフィレンツェっ子だった仲間好き、遊び好きの彼にとって、鬱屈とした思いをためていた時期。

これまでの優柔不断な元上司ソデリーニの詰めの甘さへの恨みつらみもありました。

クーデターも、親メディチ派と目されていた人間たちを逮捕していれば事が起こることはなかったのに、と。

法の人ソデリーニはわかっていながら決定的証拠がない以上、不法な逮捕をためらっていたのでした。


マキアヴェッリは反対に、以前交渉役として幾度か派遣された、ヴァレンティ―ノ公チェーザレ・ボルジアの統治と戦略の鮮やかさに感嘆し、理想の君主像を重ねていました。

チェーザレ・ボルジアは、ローマ法王アレッサンドロ6世の庶子

巧みな外交と戦略でもって、(当時滅多に使われなかった語)「イタリア」統一の野望を実現しようとした人物です。

君主論』を後世まで有名にせしめたキャッチコピー「愛されるより恐れられよ」に該当する章を見てみましょう。

ここでは、チェーザレの冷酷さが無法状態であったロマーニャ地方の秩序回復、地域統一、結果として平和と忠誠を誓わせる結果となったことをあげています。

冷酷非道の悪名を恐れて、崩壊を手をこまねいて見ているのではいけないと。

ここで面白いのが、マキアヴェッリ性悪説的視点です。

そもそも人間は恩知らずで、猫かぶりの偽善者であると。また、人間は恐れている人より愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるともあります。

理由として、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情は自身の利害に応じてたちまち断ち切ってしまう、と続きます。

(『君主論』「第17章 冷酷さと憐れみ深さ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか」)


このあたりを見ていても、マキアヴェッリの境遇、戻りたいと願いながらも背を向けられた祖国への感情がうかがえます。

文章に感情がのっている、という感じ。

マキアヴェッリチェーザレに対する心酔ぶりは、公職時代の派遣先イーモラからのフィレンツェ政府への手紙に明らかでした。

彼が傭兵制反対論者であったのも、荒くれのロマーニャ地方の農民軍を率いて自国軍として用いたチェーザレの影響と考えられます。

マキアヴェッリは第二書記局書記官時代に、この考えから自国軍創設に奔走し、ついにそれを成しとげた功績があります。

しかもフィレンツェにとって念願だった、港に出る交通の要衝であったピサの再領有に成功したのです。


傭兵軍、外国支援軍は、危険であり、そのうえに国の基盤を置くと将来の安定どころか維持もおぼつかなくなるとあります。

ほんの一握りの給料目当てで、他に動機も愛情もないからと。

(『君主論』12章 武力の種類 なかでも傭兵軍)

国民軍による自衛に裏付けられた成功例として、完全に独立を守った古代ローマ、スパルタ、そして当時のスイスをあげています。


このあたり他国に追い詰められた者が、『君主論』的理想に強く共鳴するヒントとなりうるでしょう。

極限状態に生み出された無念の凝縮の影響を受けると、どのような行動になるか。

ただし、マキアヴェッリは当時、一介の物書きでしかなかったのです。


よってマキアヴェッリの執筆の動機には、完成した著作を当時のフィレンツェ政権を牛耳るメディチ家に献上し復職したかった、という打算的な側面もありました。

こういった背景を加味しないで、『君主論』をそのまま教科書にして教訓を得ようとするのは、チガウかなという印象。

文章を読めば読むほど、マキアヴェッリの思想がすべて体現された、魂の叫びであるのは疑いようがないですけど。


その後、マキアヴェッリは、信望者たちの熱心な運動により、メディチ家の依頼を受け『フィレンツェ史』を書き上げ、世の評価と少ないながらも収入を得ます。

また論文以外の娯楽的著作も書き上げ、喜劇『マンドラーゴラ』では喜劇作家マキアヴェッリとして一躍有名となります。


そして、イタリアがフランス対スペインの戦場の舞台と化す戦乱のごたごたのなか、フィレンツェ市民はまたもメディチ家を追い出すことになります。

マキアヴェッリフィレンツェに舞い戻り、復職を胸に選挙に出ますが、世間からはメディチに尽くしたと見られ、大差で落選。

望み続けてきた公職復帰はついにかなわず、その直後に病死。

フィレンツェ共和国の滅亡は、マキアヴェッリ没の三年後のことでした。

◇工場の現場監督が『君主論』を読んで


昨年、特に我が監督下の現場は、無秩序なロマーニャ地方の様相でした。

当時は確かに、チェーザレ・ボルジア的な性質を欲したくらい。

年下の小娘だから舐められるんだ!自分が男だったらこんなことにはならなかったのに!周りの男性社員がしっかりしないから!と実に身勝手な思いを抱えていました。

他のスタッフへの苦情を受けたり、スタッフ同士のトラブルを仲裁したり、指導注意等でいろんな人の面談ばかりしていた一年でした。

決めつけは一番良くないのではじめは寄り添って聞けば聞くほど、結局は藪のなか。

人というのは立場が変わるだけで、こうも主観でものを話し、手のひらを返し、事実が変容するものかと驚いたものです。

そして、ガイドラインに則った指導の無意味さ。モラル低下の伝染。


結局、平等の旗のもとにひとりひとりのためを思うと、誰のためにもならないということ。

このあたりの視点が、管理運営において最も重要なのではとさえ思います。

「あの人ばかり楽しようとするからずるいですよ」「あの人は遅いからその作業のあとに当たるのは嫌です。注意してください」
「男だから力仕事が得意と思わないでください」「社員さんはもっと毎日、ひとりひとりの調子を見て声をかけて回るべきです」等の意見がありました。
(一時期の愚痴記事のダイジェスト笑)

そのなかで私は最近、標準化が重要なのではないかと思い至りました。

どんな背景や思想や言い分があろうと、「標準との差を埋める、維持しようと努める」ことを推奨したいと考えています。

そうでなければ、各々の尊重が生まれにくい環境になるから。

もちろん、ハンデを現実的な部分まで調整するのが監督者の役割です。一番難しいところ。


こういうものが公平性なるものなのではないかと。

人々には、様々なバックグラウンドがあります。

そのなかで、相応の義務を果たすこと。その姿を周りに見せること。監督者がそれが叶うようサポートすること。

このあたりが、多様性という言葉が飛び交うこのご時世、ヒントになってくるのではないかと、それが今の自分の考えです。



◇おわりに


現代において世界的に右傾化が進んでいるというのは、もうずいぶん以前から。

グローバリズムを推し進めた末の反動でしょう。

政情不安定な国々の移民・難民問題は、幸いにも、島国に住まう身としては差し迫った危機として実感が薄かったのは確か。

しかし、もはや対岸の火事ではありません。


ポピュリズム劇場型政治というのが最近のブームで、それをメディアが切り取って報じ、それらのパッチワークから視聴者は「わかった気になってしまう」。

この「わかった気になる」こそが、罠ではないでしょうか?


こうなると、都合のいい言葉ばかりが良しとされ、権利の主張を後押しします。

そんな風潮で、対価としての責務は持ち出されません。

正当性バイアス、そしてインターネットのアルゴリズムが気持ちよく誘導してくれます。

このような仕組みは、人依存、それも感情依存な性質の温床となります。

存命中も後世の影響も悲劇に見舞われたマキアヴェッリの名誉回復ではないですが、ここはあえて『君主論』より引用。

「人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきかというのははなはだかけ離れている。

だから、人間がいかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである」

(第15章 ことに世の君主の、毀誉褒貶はなにによるのか)


結局、令和のこの世でマネジメントに生きる部分は、このあたりのリアリズムではなかろうかと思うのです。

耳当たりのいい甘言に惑わされず、口先だけで理想を語らず、「現に人が生きている現実の姿」を自分の目で見つめること。


◇参考文献

マキアヴェリ(訳・池田廉)『君主論―新版』(2018、中央公論新社
塩野七生『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡 1』(2010、新潮社)
塩野七生『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡 2』(2010、新潮社)
塩野七生『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡 3』(2010、新潮社)
塩野七生チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(1982、新潮社)




今日も最後まで読んでくださりありがとうございました!(^^♪
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