こんばんはです、Clariceです。
疲れております。
どうして疲れているのでしょうか。新たな仕事が増えたからです。
新たな仕事はいいことです。よい経験が刺激になります。
いえ、ちがうんですよ。それはいいんですけど。
何かあったね?
あった!!!
前提として、みんな良い方向に向かうよう頑張っているんです。
しかし、どうも自分と違う意見を攻撃する火力が強火だなぁと感じる今日この頃です。
我が部署は比較的新しくできた、、というかいくつかのチームの機能が合体したキメラのような部署なんです。
私も前部署から異動してきたのでして、ほとんどバックグラウンドがちがう者同士が一緒に仕事しているのです。
だから、いつまでもぶつかってしゃあない;つД`)
ストロングポイントがそれぞれ違うから、力を合わせたら最強な力が生まれると思うんですけどね~。
自分はいちばん下っ端なので、上の意見を立てていたら、脳死で仕事するなと注意を受けたのは去年の夏でした。
そこからは私も些細なことでも発言して、年上に対しても遠慮せず振舞ったら、仕事は円滑にうまくゆきました。
ぴこんと学びました。つまり、積極性と前向きな姿勢(を常に見えるところで見せ続けること)だ?
そうでした。
各々が思っていることを伝えようとして発信しているつもりでも、伝わる内容は多くても50パーセントだと思っていて。
それをコミュニケーションなるもので補う必要があるのでした。
ホモサピエンスがどうして他の人類を淘汰して生き残ったのか?
それは同じフィクションを共有することを覚えたからです。(一説)
つまり、うちは年功序列ではない。コミュ力序列です。嗚呼、民間。
飄々としていて、誰とでもフランクに接することができる人材がいちばん出世します。
具体的に言うと、飲み会のあと二次会でカラオケに行き、そのままオールナイトできる人間が好かれます。
(誰も推奨はしてません)
我々のおもな仕事は生産管理であり、従業員への指示だし、教育です。商品開発、納期交渉、クレーム対応もします。
だから、やはりリーダー気質が求められ、リーダー気質の人材が採用されます。
つまり、、アカレンジャー祭りだということですよ。
そら燃える燃える!熱い!!
働きアリ理論(?)で、アカレンジャーもたくさん集まれば、そのなかで色がでてきます。
しかし、バーガンディー、トマトレッド、コーラルにバーミリオンにスカーレットがいたとてアッツイことに違いはないのです。
ぎゃー!!!
かくいう私もどちらかといえば目立ちたがり屋の部類に入ります。
なるべくしてこうなってしまったのでしょう。
自信家か、鈍感か、傲慢か、独裁者か、あるいはネジがとんでいるか、いずれにせよ、耐性がないとつとまりません。
◇
最近思うに、人前に立つ人間を陰でこそこそ言う人は、ほとんどそういう場に立ったことがないのじゃないかということです。
いろんなひとがいます。
沸点の低い方、逆張りをせずにはいられない方、被害妄想の激しい方、否定することで優位に立ったつもりでいる方。
こんなこと言われたひどい傷ついた何とかしてと訴える人のなかには、自分も同じだけ人を傷つけていることに気づいてない人もいます。
まぁそれが目上であろうとそうでなかろうと、そのひとりひとりに合わせた対応をとるのは、不可能です。
朝礼などで、前に立つこちら側からは、すべての人の視線は全部見えます。
群衆に混じっているつもりでいるひとりひとりが思っている以上に見えるんだぞ。
◇
あーあ。
どうしようもない領域に足を踏み入れて戻れないところまで来てしまっています。
職場の私は、すっかり効率厨で指示厨です。
◇
だから、ブログを書くのですよ。
どうでもいいことに思いを馳せ、どうでもいいことを書き連ね、どうでもよく生きるんです。
印象をただよってただよって、ちょっとだけ本質に近いところまで泳いだら、また此岸に戻ってくるんです。
年始、親戚の集まりで仕事内容をみんなに話していたら、嫌われ役だ、いろいろ陰で言われてんだろうね、と言われ、私はまさにその通りと頷きました。
おちょくりのつもりで言っていた陽気で快活な叔母は面食らっていました。
まぁそうは言ってみたものの、結局、長い目で見たら刺激的で鍛えられるよと思ったことを言っておきました。
叔母は、就職を春に控えた従妹に、社会勉強だからちゃんと聞いておきなと言っていました。
私も少しは手本を示せる大人になれたということでしょうか。
いや、ちょっと特殊すぎるからOLとしての参考にはなりませんけど笑
甲子園でビールの売り子をやったり、一時期お笑い芸人を志していた従妹は、きっとへっちゃらだと思いますけどね。
しかし、この現代において、なにがしか(本当になんでもいい)を共有する柔軟性と、ある種の「鈍感力」というか、受け流す、聞き流す力というのは生きていくための必須科目じゃないですかね。
おりこうさんで従順な「優等生」を量産する学校教育方針は、とうに限界を迎えているのではないかと、私は感じていますがいかが。