非ジプシーによって作られた、ジプシーの歴史とイメージ形成をたどる試みの第4弾です。
ジプシーと聞くと、どのような印象を持ちますか?
文学から得たイメージのみで語ると、
複数の大家族で馬車に住み、移動しながら音楽や占いを生業とする人々…
固有の言語・文化を共有しながら、ヨーロッパ各地に散らばっているひとつの民族、という印象があります。
果たして、そのようなロマンティックなイメージは誰からどのように発生したのでしょうか。
さて、前回は、19世紀から爆発的に流行したロマン主義的に脚色されたジプシー像流行の経緯について書きました。
今回は、私たちが「ジプシー音楽」と呼ぶものについて、紐解いていきます。
特に19世紀ヨーロッパには、ジプシーをモチーフとした音楽を作った作曲家が多く現れました。
ヨハン・シュトラウス(1825-1899)喜歌劇「ジプシー男爵」
パブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)「チゴイネルワイゼン」
ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)歌劇「カルメン」
などなど。
今回も例によって、ロマの方々のことを「ジプシー」と表記することをお許しください。
イメージ論の話なので、どうしても避けられないのです。
我々が想像する「ジプシー音楽」
そもそも、ジプシー音楽とは何でしょう。
我々は、ジプシーたちが演奏する彼らの伝統音楽の文化のこと、と捉えるふしがあります。
先ほど挙げた、名だたる作曲家たち(むろんブラームスや、リストも含む)は、彼らの旋律を借りている、という認識ではないでしょうか。
しかし、前回の「ジプシーがロマン主義的に脚色された」ことを踏まえると、どうやら彼ららしい音楽のイメージは外部から創作された延長にあるのではないか、という疑問が生まれます。
たしかに、ヨーロッパにおいてジプシーの報告は、音楽と結び付けてなされてきたようです。
ジプシーたちは、ヴァイオリン弾きや歌唱を生業とする職業音楽家として、その音楽性の珍しさと才能から、各地で歓迎を受けたとも。
同時代、18世紀におけるオーストリア・ハンガリー帝国に君臨した、女帝マリア・テレジア。
彼女もジプシーのチェンバロ奏者を評価し、ガラス製のチェンバロを作らせたといいます。
バルトークによる批判
20世紀の偉大な作曲家の一人である、バルトーク(1881-1945)もジプシー音楽という概念の危うさについて指摘しています。
バルトークは、ハンガリーやルーマニアなど中欧・東欧にて民謡を採集するという民俗音楽研究者でもありました。
彼は、特にピアニストであり作曲家のリスト(1811-1886)がジプシー風に仕上げた音楽について批判しています。
彼の作曲する「ジプシー風」の音楽は、本当の意味での彼らの音楽ではないと。
バルトークによると、リストはジプシーたちから音楽を採集したのではなく、語学に堪能な(しかし音楽の専門ではない)ハンガリー紳士を仲介して得ていたといいます。
ドイツやオーストリアで活動していたリストは、ロマの言葉はおろか、ハンガリー語の知識も不十分であったためです。
しかし、です。
当時の世間も同じく「ジプシー音楽」を求め、熱狂していました。
実際に、ジプシー風の音楽は19世紀の音楽文化に自然と溶け込みました。
ロマン主義観に染まった同時代の音楽家および聴衆が、自由でロマンティックな音楽をジプシー風の音楽に求めたために。
捏造されたジプシー像
前回言及した、ジプシーのインド起源を唱えたドイツ人研究者グレルマン。
彼は、ジプシーが単一民族でありインドの不可触選民の出であるという仮説を確固たるものにしました。
典拠のあいまいな言語リストと、科学的根拠のない比較言語学の手法を以て。
そして、多言語話者でありロマン主義作家でもあった、ジョージ・ボロウ。
彼も、親しくジプシーたちと交流したかのような半自伝小説を出版していました。
現在の研究では、ボロウがジプシーコミュ二ティの一員として彼らの情報を得ていたという可能性は疑問視されています。
ジプシーたちは、当然自分たちのコミュニティを守るために、外部の人間に嘘をつきます。
そして、当時非ジプシーの人々こそ現実問題としては、ジプシーを蔑視していたのです。
(ジプシーたちが、政府や民間団体に社会問題として扱われ出すのは20世紀からのことです。)
クラシック音楽のなかで散見されるようなロマンチックで哀愁漂うジプシー像も、当事者の関わりないところで、捏造されたと考えるのが妥当かと思われます。
民俗音楽の継承者としてのジプシー
そうはいっても、実際にジプシーの演奏者たちは、確かに存在し各国で歓迎されていたのです。
では、彼らの演奏していた音楽は何だったのでしょう。
ロマのモチーフなるものが捏造されたイメージであるというのならば。
そこでなのですが、ヨーロッパじゅうに現れたジプシー演奏家たちに、残念ながら音楽言語の共通性はないといわれています。
各地に散らばる彼らは、同じ音楽を奏でていたわけではありません。
それぞれのコミュニティが国境を越え、移動を続けるなかで、様々な国の民俗・伝承音楽を吸収していたのです。
彼らは、そうして得た音楽のテーマを編曲し、即興で演奏する能力に非常に長けていました。
とくに、ハンガリー・ロシア・スペインでは、ジプシーの演奏者たちは卓越した地位を得たといいます。
ハンガリーにおいては、その地の伝統音楽を吸収し、巧妙な技術で自在に編曲した音楽を流行させました。
そして、国民的アイデンティティの一部へと昇華させたのです。
つまり、ジプシー演奏家たちは生活の糧として、各国の伝統音楽を編曲した聴衆にウケのいい音楽をやり、そのような即興演奏が「ジプシーの音楽」として大流行していたのです。
著名な作曲家たちは、「ジプシーの音楽」からモチーフを取り入れ、さらにロマンティックに誇張して、それが大々的に広まったのだと考えられます。
それが我々の知る「ジプシー音楽」たらしめ、現在に至るまでそれをロマの人たちの伝統音楽と疑わずに享受してきた、といえましょう。
個人的には、それらの音楽とスペインやハンガリーなどの民俗・伝統音楽に明確な線引きができないことも、そのようなためではないかと考えているのです。
◇参考文献◇
神保璟一郎『クラシック音楽・鑑賞事典』(1983)
相沢久『ジプシー 漂泊の民』(1980)
木内信敬『ジプシーの謎を追って』(1989)
フレーザー、A.『ジプシー 民族の歴史と文化』訳:水谷 驍(2002)
水谷 驍『ジプシー史再考』(2018)
ベーラ・バルトーク『バルトーク音楽論選』訳:伊東 信宏 (2018)Bart´ok B´ela (原著)
今日も読んでくださりありがとうございました!(^^♪